『教えてコーチ☆ミルロの水泳教室』 作・Kia 『ねぇ、おかあさまぁ、これよんでーっ!』  ステレオのように響いた、舌足らずのかわいらしい声。 「おかぁさまぁ〜」 「よんでよんでーっ!」  パジャマ姿の女の子二人が差し出したのは、一冊の絵本だった。 「分かったわ」  母親は、娘たちから絵本をそっと受け取る。  タイトルは、『くじらごうにのって』。表紙には、大きなクジラの絵が優しいタッチで描かれている。 だが本は古く、作者の名前が読めないほど色あせていた。 「むかしむかし、あるところに、ふたりのおんなのこがいました」  母親は傍らのベッドに腰掛けると、ゆっくりとページを開く。  その両隣に、二人がちょこんと座った。  「ぼくは、くじらごうだよ」   とつぜん くじらがしゃべったので   おんなのこは とてもおどろきました  主人公の少女たちは、潜水艦くじら号に乗って、ふしぎ星の各国を巡る。  二人は、目を輝かせて母親の話に耳を傾けた。  本の主人公と、自分たちとを重ね合わせて。  「でも、おひさまのくには そらのうえにあるよ」  「どうやっても いけないわ」   むっつのくにをまわった くじらごうでしたが   そらをとぶことは できません  だが潜水艦は、七番目のおひさまの国に行けなかった。おひさまの国は、空中に浮かんでいるからだ。  ここから、物語はクライマックスを迎える。  最後の目的地、おひさまの国へと向かうため、くじら号は―― 「『だいじょうぶだよ。うみがなくても、おひさまのくにへいくほうほうがあるのさ』……あら?」  母親が気付いたときには、娘二人はベッドの上でスヤスヤと眠っていた。 「もう寝ちゃったのね」  娘たちにそっと毛布をかけてやると。 「おや、本を読んであげているのかい?」 「あら、あなた」  声をかけてきたのは、彼女の夫、すなわち女の子たちの父親だった。 「ええ。でも、読んでいる途中で眠ってしまったわ」 「二人は、どんな夢をみているのかな?」  ふと、父親がなんてことのない疑問を口にする。 「きっと……夢の中でも冒険していると思うわ。この本の女の子たちのように……」  母親は『くじらごうにのって』を二人の枕元にそっと置く。 「じゃあ、僕たちもそろそろ眠ろうか。おやすみ」 「おやすみなさい」  今日最後のキスをして、二人は一緒のベッドへと横たわる。 「二人とも、今日は一緒に寝ましょうね。おやすみなさい」  母親は、両腕に娘たちのぬくもりを感じながら眠りについた。 ☆ ☆ ☆  しずくの国の西側。森の奥に隠れるように、小さな浜辺があった。 時々やさしくそよぐ「風」が、海面を揺らす。  おだやかな波が、白い砂浜に打ち寄せる。  まだ高い位置にある「おひさま」の光が、きらきらと反射する。 そんなのどかな海を、一人の少女が泳いでいた。  アメジストのような、明るい紫のつぶらな瞳。ハニーブラウンのショートボブから生えている、クマのような丸い耳。  しずくの国のプリンセス・ミルロである。  彼女は、ときどき城を抜け出してここに水浴びに来ていた。  いわばこの浜辺は、ミルロだけのプライベート・ビーチ。  背景……じゃなかった、背泳で水面をたゆたうミルロは、まるでおとぎ話の人魚姫のようだ。 ビーバ族としての血筋がそう感じさせるのか、アクアブルーの水着ごしに伝わってくる冷たさが心地よい。  ミルロが、水の中で安らぎの気持ちを覚えていたそんなとき。 「……!」 茂みの奥から、ガサガサという物音がした。 ミルロは、思わず水中へと隠れる。一国のプリンセスが、このような場所で泳ぐ姿を見られるのは、あまり好ましいことではない。 (風かしら? それとも、このあたりの動物かな?) 気付かれないように息を殺しながら、ミルロは水面からほんの少しだけ顔を出す。 「ミルロぉ〜!」  人の声がした。やはり、誰かが来ていたのだ。  ミルロは、その声に聞き覚えがあった。女の子、しかも、どこかへにゃへにゃとした甘い声は……。 「レイン……?」  思わず返事をしてしまう。  すると、茂みの中から蒼い髪、翠の瞳の少女がひょっこりと顔を出した。 「ごめんなさい、ミルロ。水浴びをしていたのね」  おひさまの国のプリンセス・レインである。青いシルクハットがとてもよく似合っている。 「どうしてここが分かったの……?」  ミルロは、どうやってレインがここまで来たのか不思議がった。  浜辺へは内緒で来たから、誰かに教えてもらったとは考えられない。 「気球でしずくの国に来たんだけど、お城にミルロがいなかったから、こうやってここまで来たの」  レインが説明した方法は、きわめて古典的なものだった。 「トゥインクル・ブルーミッシュ! ど・ち・らにしようかな!」  まず呪文を唱え、ロイヤルサニーロッドを地面に突き立てる。  パタン。  すると、サニーロッドは「重力」に従って、ある方向に倒れる。 「こっちね!」  その倒れた方向に進むというものである。これでは、偶然この場所にたどり着いたのか、それともひとりプロミネンスの力なのかよく分からない。 「ところで、私に何かご用かしら……?」 「それなんだけど……今度プリンセス・パーティがあるのは、ミルロも知ってるわよね?」 「ええ、ベスト・サマー・プリンセスを決めるパーティね」  ベスト・サマー・プリンセス・パーティ。  その名の通り、もっとも夏が似合うプリンセスを決めるパーティだ。 「うん。でも、実はあたし……」  一瞬顔をそむけたレインだったが、すぐにミルロの目をまっすぐに見つめた。 「……泳げないの!」 ☆ ☆ ☆  話は、数日前にさかのぼる。 「いいですか、ファイン様、レイン様」  教育係のキャメロットは、ふたご姫をプールへと連れてきていた。  おひさまの国の城内設備のひとつだ。ちょっとした水泳大会が開けそうなくらいの広さを有している。 「今度のプリンセス・パーティは、ベスト・サマー・プリンセスを決めるパーティです。夏といえば海。海と言えば海水浴! ベスト・サマー・プリンセスに選ばれるためには、泳ぎをマスターすることが必須なのです!」  毎回毎回ベスト・プリンセスを逃すふたごに、キャメロットは少々焦りを覚えていた。  今度こそは、なんとしてもベスト・プリンセスに選ばれなくては。  と、キャメロットは密かに使命感を燃やしていた。 「夏は水着シーンが重要……っと」  その隣では、教育係見習い、ニャムル族のルルがメモを取る。 「準備体操も済ませたし。アタシ行くね!」 「あっ、お待ちください、ファイン様!」  キャメロットの静止を振り切って、ファインはプールに飛び込んだ。  鮮やかな飛び込みを決めると、そのままクロールでスイスイと泳いでいく。もちろん息継ぎも完璧だ。  あっという間に、ファインはプールの反対側まで泳ぎ着いた。 「ああっ、ファイン様、素晴らしいです!」  キャメロットが歓喜の声を上げる。  これなら、もしかするともしかするかもしれない。 「レインも早くおいでよ!」  ファインが、レインをせかす。 「ファイン、待ってぇぉぅ〜」  レインは、おっとりとしたへにゃへにゃボイスを炸裂させながらプールに入る。  ドボン。  そのまま、レインは上がってこない。 「……ブクブクブク」  水面にはコポコポと泡が立ち、水中のレインはぐるぐると目を回している。 「タイヘンタイヘン! レインが溺れてるよーっ!」 「だいじょうぶだいじょうぶ……って、そんなこと言ってる場合じゃないプモー!」 「ああっ、レイン様! 今お助けに……! うっ、腰が! 腰が!」  プールは一時修羅場と化したものの、プーモがなんとかレインを引き上げて、どうにか事なきを得た。 「キー局によっては、水着シーンは規制の対象……っと」  ルルは、何事もなかったかのように冷静にメモを取っていた。 「……というわけなの。ねぇ、ミルロ。あたしに泳ぎ方を教えて!」 「でも、どうして私に……?」 「しずくの国のプリンセスだから、泳ぎは得意かなーって思ったの」  レインは無邪気に微笑んでみせる。  予想というか、ほとんど勘なのだが、ともあれそれは当たっていた。 「うん……泳ぐのは、得意なんだけど……」  ビーバ族は、基本的に泳ぎが得意な種族である。 「私なんかでいいのかな……?」  ミルロは、少し目をそらしてためらいの表情を浮かべた。 「だいじょうぶだいじょうぶ! ミルロなら教えられるよ」 「……うんっ」  ミルロは小さくうなずいた。  やれるだけやってみよう。何事もやってみなくては、結果は分からないのだから。 ☆ ☆ ☆ 「まずは、『じゅんびたいそう』をはじめましょう。ちゃんとやらないと、足がつってしまうから気をつけてね」 「はーい! ミルロ先生!」  純白のワンピースに着替えたレインは、元気よく手を挙げる。 「腕を前から上にあげて、のびのびと背伸びの運動からよ。一、二、三、四……」  先生と呼ばれたことに戸惑いとうれしさを感じながらも、体操をはじめるミルロ。 「五、六、七、八……」  レインは、必死になってミルロの動きを真似しようとするが。 「きゃっ……、おわっ……、ふわぁーっ〜!」  ミルロのゆっくりと動きにすらついていけず、思いっきり転んでしまう。 「大丈夫?」 「だいじょうぶだいじょうぶ! でも……この体操難しいわよね。そうだわ!」  レインの頭に、あるアイデアがひらめく。 「どうしたの?」 「体操って、体を動かすならなんだっていいのよね?」 「ええ。別になんでもいいわよ。レインの得意な体操があるの?」 「うん!」  レインの体操とは……いつものアレだった。 「いやいやいや〜ん、いやいや〜ん。ミルロも一緒に!」 「いやいやいや〜ん、いやいや〜ん」  今度は、ミルロがレインの動きを真似する。  ミルロとレインの動きはピッタリと揃っていた。さすが、パン食い競争コンビは伊達ではない。 「レイン。そろそろ、水の中に入りましょう」  このままだと、レインのダンス教室になってしまう。 そう思ったミルロは、レインの手を取って彼女を海へエスコートする。 「ハぁィぃ……」  先ほどまであれほど元気だったレインが、急にしおれてしまった。 「転ばないように気をつけてね」  ミルロが先に水の中へ。  だが、レインは、水の一歩手前でピタリと足を止めてしまう。 「もしかして……水がこわいの……?」 レインの足が震えている。 ミルロは、こんなにも怯えているレインを見たことがなかった。 「……」  コクリとうなずくレイン。 「怖くないわ。水は、やさしく包んでくれるから。水は、空へと飛んでいって雲になる。雲は、雨を降らせ作物を実らせる。私たちが生きていけるのは、水のおかげなの。私たちのからだも、半分以上が水でできているのよ」  今度は、ミルロがレインを励ます番である。 「いざとなったら、私が助けるわ。さあ、がんばって」 「うん」  レインは、ミルロに手を引かれながら水の中に一歩を踏み出した。  つま先に、冷たくて心地よい感触が伝わってくる。  不思議と怖くはなかった。ミルロが手をつないでいてくれるおかげだろうか。 「ここから深くなるわ」  ミルロはさらに深いところへと進んでいく。  水は、ちょうどレインの腰のあたりまできていた。 「顔を水につけてみて」 「ふぅぇーっ!」  ここまできたら、もうやるしかない。レインは、思い切って水面に顔をつけた。  おそるおそる、目を開けてみる。 (きれい……)  そこには、蒼い水の世界が広がっていた。  白い砂浜と、ミルロと、レイン自身。それ以外は、蒼色がどこまでも続く世界。 レインは、ほんの少しの間その光景に見とれていた。 「……!」  すぐに苦しくなって、水面から顔を上げる。  空の青がひろがるこの世界では、ミルロが微笑んでいた。 「ありがとう、ミルロ。なんか、水が怖くなくなってきたわ。さすがしずくの国のプリンセスね」 レインの中で、水の穏やかなイメージと、ミルロの優しくてふんわりとしたイメージが重なる。 「どういたしまして。でも、練習はまだまだこれからよ」  二人は微笑みあった。  ちょっとずつ前に進んでいることが、ただただうれしくて。  だが、そんなとき、海のさらに奥深くで。  巨大な影が泳いでいることに、二人はまだ気付いていなかった。 ☆ ☆ ☆ 「もう一回『ばたあし』の練習よ」  ミルロのレッスンは順調に進んでいた。 「はーい!」  レインは、まだ一人で泳げなかったが、ミルロの手をつかみながらバタバタと足を動かし、同時に息継ぎができるまでになっていた。  泳げるようになるまで、あと一歩といったところだ。  ミルロは、レインの上達振りに驚きを隠せなかった。 「もしかしたら、レインも運動神経がいいのかもしれないわ。ファインはあれだけ運動が得意なのだから」  ミルロが発した「ファイン」という単語に、ガサガサと茂みが動く。  レインは、瞬間見えた赤い中折れ帽子を見逃さなかった。 「ファイン!」 「アハハッ。見つかっちゃった」  旅姿のファインが、茂みの中から飛び出してくる。 「レインさま、申し訳ございませんプモ。しかしながら、人知れず特訓をなお心がけ! まさに、プリンセスの鑑でプモ!」  さらには、プーモまでもが姿を見せた。 「それにプーモまで! どうしてここが分かったの?」 「えへへ、実はね、こうやってここまで来たんだ!」  木の棒をサニーロッドに見立てて地面に突き立てるファイン。  彼女の説明は、レインとまったく同じものだった。 さすがふたご。考えることは一緒である。  やっぱり偶然なのか、ひとりプロミネンスの力なのか、はたまたファインの野生のカンなのかよく分からない。 「ファインにこんな姿を見られたくなかったのにぃ〜!」 「ゴメンゴメン。レインが急に一人で飛び出したから気になっちゃって。でも、こんなことなら水着持ってくればよかったなぁ」  と、海岸線を見やるファインはあることを思いついた。 「そうだ、ミルロ! 泳いでみせてよ! 泳ぎうまいんでしょ?」 「あたしも、ミルロの泳ぐ姿を見てみたいわ」  二人の頼みとあっては断れない。ミルロは、恥ずかしがりながらも泳ぎを披露することにした。 「それじゃ、いくね」  海へと入ったミルロは、ゆっくりと泳ぎだす。  泳法は平泳ぎ。地味なところがミルロらしい。 「すごーい!」 「すごいわ!」 思わず感心するふたご。  ミルロはきれいなフォームでスイスイと泳いでいく。 「レインももう少し練習すれば、こんなふうに泳げるようになるわ」  ある程度の距離を泳いだミルロは、向きを反転して浜辺に戻ってくる……はずだった。 「きゃーっ!」  何の前触れもなく、ミルロが叫び声をあげる。 「ミルロっ!」 「どうしたのぉっ!」  二人は、自分たちの目を疑った。  あれだけ泳ぎが得意なはずのミルロが、溺れている。 「あれは、ふしぎシビレクラゲプモ! 刺されると、少しの間体が動かなくなってしまうプモ!」 プーモが、水中にふわふわとただよう物体に気付いた。 「助けなくちゃ!」  プーモの言葉を聞いたファインが水に飛び込もうとする。 「ダメでプモ! その服のままでは溺れてしまうプモ!」  プーモはファインを強く静止した。  泳ぎの得意な人でも、服を着たままで泳ぐのは難しい。濡れた服が体の動きを阻害するからだ。 「ミルロぉっ……!」  レインは水着に着替えていたが、彼女は根本的に泳げない。  それにもかかわらず、レインは海に飛び込んだ。 「レイン!」 「レインさま!」 一見すると溺れているようにしか見えなかったが、レインは『ばたあし』でちゃんと前に進んでいた。 「レインが……泳いでる……」 ファインは、一瞬呆然となるがすぐ我に返った。 「そんなことより、ミルロを助けなくちゃ!」 「ファインさま! あの浮き輪を投げるプモ!」  プーモが、練習用に持ってきていたレインの浮き輪を指差す。  溺れている人を見つけたら、助ける人は水に飛び込まず、陸から浮かぶものを投げ込む。これが、水難救助の基本である。 「えーいっ!」  ファインのコントロールは抜群だ。  浮き輪は見事な放物線を描き、ミルロのそばに着水する。  ミルロはもがきながらも、どうにか浮き輪をつかまえた。 「ミルロ様は無事プモ!」  レインは、プーモの声を聞いてしまった。 「あれ、そういえば、あたし……泳げなぃぉぅ……」  自分が泳げないことを思い出してしまい、そのまま、ブクブクと沈んでしまう。 「レイン!」  ミルロは、浮き輪から手を離し、海中に沈んでいくレインを追いかけた。  まだうまく動かない体で。  レインの手をしっかりとつかんだが、足が思うように動かせない。 (もうダメ……? いいえ……、まだだわ……!)  片手だけでも必死に泳ぐが、だんだんと沈んでいってしまう。  ミルロの意識が、だんだんと遠のいていく。  薄れる意識の中で、ミルロは何かが近づいてくる気配を感じていた。  それは、大きく口を開いた巨大な影だった。  ミルロは、そしてレインは、その影に飲み込まれてしまった。 ☆ ☆ ☆ 「どうしようどうしよう! 二人とも、上がってこないよー!」 ファインは、プーモを振り切って海に飛び込もうとした。 ミルロとレインの姿が海に消えてから、かれこれ一分近くは経っている。 「待つでプモ! こうなったら、このボクがいくでプモ!」  二人を助けたい。その気持ちはプーモも同じだった。 「じゃあ、一緒に行こう! プーモ、アタシの肩に乗って!」 「どういうことでプモ?」  すると、ファインはサニールーチェからサニーロッドを取り出した。 「トゥインクル、ブルーミッシュ! シャボン玉、飛ーばそう!」  プロミネンスの光が、ファインたちのまわりにひとまわり大きい『シャボン玉』を作り出す。 「その手があったプモ!」  ファインは『シャボン玉』を湖の中に沈めた。中に水は入ってこない。 「やった、成功っ!」 ファインは、『シャボン玉』をコントロールして水中を進んだ。 「レインーっ! ミルローっ!」  いなくなった二人の名前を呼んでみるが、返事はない。 「おかしいでプモ。どこにもお二人のお姿が見当たらないでプモ……」  いくら海中を探しても、二人の姿が見えない。  さすがのプーモも、焦りを隠せずにいた。 「プ、プーモ……、あ、あれ……!」 「どうしたでプモ?」  ファインが指差すほうを見るべく、プーモが振り返ると。、 巨大な影が、大きな口を開けて待ち構えていた。 「きゃーっ!」 「プモーっ!」  水中に、一人と一匹の悲鳴が響き渡った。 ☆ ☆ ☆ 「……あっ」 頬に落ちてきたしずくに気が付いて、ミルロは意識を取り戻した。 「そうだ、レインは……!」  ハッとしたミルロは、あわててレインのもとにかけ寄る。レインはミルロのすぐそばにいた。 「レイン! レイン!」 「ミルロ……?」  ミルロが体を揺らすと、レインはすぐに意識を取り戻した。 「よかった……」 「ところで、ここはどこかしら?」 キョロキョロと見回すレイン。 二人に認識できたのは、「おひさま」の光が届かない、薄暗くじめじめとした場所であることくらいだった。 「分からないわ。どこかの浜辺に打ち上げられたのかもしれないけど……」 「じゃあ、このあたりを探検してみましょう」 レインに不安そうな様子はなく、むしろこの状況を楽しんでいた。 「ええ、そうね」  レインの言うとおりだ。ここで悩んでいても仕方がない。  差し出されたレインの手をつかんで、ミルロは立ちあがろうとした。 「きゃっ!」  だが、突然脚に痛みが走り、ミルロは尻餅をついてしまう。 「ミルロ、どうしたの?」  レインがミルロの脚を確認すると、ミルロの脚が赤く腫れていた。  クラゲに刺されたからだった。 「ちょっと我慢してね」  レインは、サニールーチェを取り出すと、呪文を唱える。 「トゥインクル、ブルーミッシュ! いたいのいたいの、あっちのお山に飛んでいけ!」  プロミネンスの光がミルロの体を包み込むと、徐々にミルロの脚から腫れがひいていった。 「ありがとう、レイン」 「どういたしまして。それじゃ、行きましょう」  レインはミルロの手を引いて、ズンズンと進んでいく。  二人の行く手には、ただひたすら長い廊下が伸びていた。 「ずいぶん奥まで続いているわね」 「そうね、どこまで続いているのかしら……」  不安になったミルロは、思わずつないだ手を強く握った。 「ごめんなさいミルロ」  するとレインは、唐突にそう切り出した。 「あたし、泳げないのに飛び込んでしまって……」 「ごめんなさい、私も……ひとり海に来るべきではなかったわ。もしレインやファインが来てくれなかったら、今ごろ私は……」  ミルロも、海に潜む危険を認識していなかったことを素直に謝る。 「そんなに気にしないで。誰だって、失敗や間違いはあるわ。大事なのは、同じ失敗を繰り返さないことよ」  レインは、いつものように屈託のない笑顔で笑っている。 「ええ。次からは、ちゃんと気をつけるわ」 「あたしなんて、失敗してばっかりだけどね」 「うふふっ」  微笑みあう二人は、廊下の突き当たり、一枚のドアに差しかかった。 「開けてみましょう」  レインは迷わない。進める道には進む。  キーと音を立てて開くと、ドアの向こうは部屋になっていた。  ディスプレイやいくつかのスイッチ、さまざまな計器類が並んでいる。 「この部屋、どこかで見たことあるような気がするわ……。確か……そう、おひさまの国の観測室よ」 「そういえば……しずくの国のポンプ室にも似ているわ」  二人の知っている場所はそれぞれ違っていたが、イメージするものは一緒だった。共通点は、何かの機械を操作するということ。 「何かしら、これ?」  すると、レインはいかにも「押してくれ」といわんばかりの大きなボタンを発見した。  何か文字で説明書きがあるが、レインにはその文字が読めなかった。 「ねえミルロ? これ読める?」  ミルロは、首を横に振る。 「じゃあ、押してみましょう」  レインは迷わない。押せるボタンは押す。 「あの……知らないボタンを押すのは、キケンだと思うの。自爆……とか」  ミルロの意見を聞いたレインは、もうすでにボタンを押していた。 「きゃーっ!」 「プモーッ!」 すると、上からファインとプーモが降ってきた。 「ファイン! プーモ!」 「レイン! それにミルロも! よかった、無事だったんだ!」 「ねえ、ファイン。ここがどこだか分かるかしら……?」  ミルロがファインに聞いてみる。 「えーっと、ここは……。そうだ! アタシたち、クジラさんに食べられちゃったんだ!」 「えーっ! じゃあ、あたしたち、クジラさんのお腹の中にいるのぉ!」  ショックを受けたレインは、ファインと一緒にヘンテコなダンスを踊り出す。 『レッツ、ドロドロダーンス! どっどどろどろドロドロ〜』 「またはじまったでプモ……」  あきれ返るプーモは、突然、部屋全体が揺れているのを感じた。  ――くぉぉぉぉぉぉぉっ! さらに、部屋中に低いうなり声が響き渡る。 「何、今の声! やだっ、もしかしてお化け! コワイよコワイよー!」  ファインがおびえだし、強く耳をふさいでしまう。 「落ち着いて、ファイン」 すると、ミルロがファインの手を握った。 「えっ、ミルロ?」  ミルロはやさしくたしなめる。 「もしかしたら、この声……クジラさんの声じゃないかしら?」 「クジラさんの、声?」  ファインは、耳を澄まし、目を閉じておそるおそる不気味な声に耳を傾けた。 「うん。あたし、ファイン。あなたは?」  すると、ファインはいきなり誰かに話しかけた。  ――くぉぉぉぉぉぉぉっ!  ファインの声に、不気味な声が応える。 「ふぅーん、そうなんだ。あなた、もしかしてクジラさんなの?」  不気味な声に、ファインが返事をしている。 ――くぉぉぉぉぉぉぉっ! 「やっぱり、この声の主がクジラさんだって。レインとミルロが溺れていたから、助けてくれたみたい!」  ファインは、謎の声との会話を成立させていた。 「すごいわ、ファイン。クジラさんの言葉が分かるのね」 「うん。なんとなくだけど」  ファインは、レインと同じ微笑みをミルロに浮かべた。 ――くぉぉぉぉぉぉぉっ! 「ねえ、クジラさんはなんて言っているのかしら?」 「えーっと……」  ファインは、ミルロに通訳をはじめる。 「今からここは水でいっぱいになるから……、しばらく息を止めて、だって!」 「それってまさか……」  レインには、ひとつだけ心当たりがあった。 「レインさま。ひょっとして、何かやらかしたプモか?」  プーモは、疑いのまなざしをレインに向ける。 「あたしは……このボタンを押しただけなんだだけど」 「このボタンでプモか?」  プーモが書いてある文字を読んでみる。幸い、プーモはその文字を読むことができた。 「『緊急離脱ボタン』って書いてあるプモ!」 『えーっ!』  全員が驚く間もなく、部屋は水でいっぱいになった。そして―― ☆ ☆ ☆ 小さな浜辺に、大きなクジラが乗り上げた。  そのクジラが勢いよく潮を吹き上げると、そこから全員が飛び出す。 「わ〜い、外だよ!」 「まさか、生きて帰れるとは思わなかったでプモ」 「あたしたち、助かったのね! よかったね、ミルロ」 「うん」  全員は、お互いの無事を確かめ合う。 『クジラさん、ありがとう!』 「ありがとうございまプモ。何とお礼を申し上げてよいか……」 「助けていただいてありがとうございました……」  丁寧にお辞儀しようとするミルロだったが、急に言葉を止めた。 「……クジラさんの様子がおかしいわ」  ミルロの言うとおり、クジラはどこか苦しそうな表情を浮かべている。 「浜に打ち上げられて、海に戻れなくなったんでプモ!」 「もしかして……」 「アタシたちを助けるために……」  レインとファインは気付いた。 クジラが、自らの危険もかえりみず自分たちを助けてくれたことに。 「ファイン、レイン、クジラさんを助けてあげて!」  ミルロは、精一杯に大きな声でふたごにお願いする。 「やっちゃおうか!」 「やっちゃおう!」  ミルロに言われるまでもなく、二人の答えは決まっていた。 「ふぁんふぁんファイン!」 「らんらんレイン!」 手を取り合うファインとレイン。 『プローミネンス、ドレスアーップ!』  こうして二人は、プロミネンスドレスにその身を包みこんだ。 『トゥインクル、ブルーミッシュ!』 「クジラさんを!」 「助けて!」  ファインとレインの呪文に、プロミネンスの力が応える。  海から噴水のように水しぶきがあがり、きらきらと「おひさま」の光を反射させる。  光は、しずくのかけらによって七色に分かれていく。 こうして砂浜と海とをつなぐ、虹の架け橋が生まれた。 「くぉぉぉぉぉぉぉっ!」  クジラは低いうなり声を上げて、虹の中を泳ぎはじめる。   くじらごうが しおをふきだすと   そらに にじのはしが かかりました  「これで おひさまのくにに いけるよ」   くじらごうは にじのなかを およいでいきました 「きれい……」  ミルロは、その光景をただ純粋にきれいだと思った。 (そうだ。帰ったら、ナルロに絵本を描いてあげようかな……。二人の女の子が、潜水艦くじら号に乗って、ふしぎ星じゅうをめぐるの。タイトルは……そうだわ、『くじらごうにのって』にしようかしら……) ミルロは、ふと、そんなことを思いついた。 『クジラさ〜ん! バイバーイ!』  ふたごは、そしてミルロは、広い海に去っていくクジラに向かってずっと手を振りつづけた。 (おしまい)